せんとくん応援ブログ

不滅の英雄せんとくんを讃えるブログです

せんとくん、ごめんなさい。

私としたことが、とんでもない失態を犯してしまいました。本当に情けないです。


ちょうど1週間前の2月12日は、我らがせんとくんの13回目の誕生日でした。2008年2月12日は、せんとくんのビジュアルが発表された日で、まだ名前も決まってはいなかったのですが、この日が公式に誕生日として認定されています。


せんとくんを応援するブログが誕生日を祝わないなどということは絶対あってはなりません。小さな小さなブログではありますが、ブログの規模の問題ではありません。誠に申し訳なく、またお恥ずかしい限りです。


しかし、後悔しても後の祭り。来年まで何としてでもブログを存続させ、必ずや2022年2月12日はおめでとうの記事を書くことを誓います。


1週間も遅くなってしまいましたが・・・


せんとくん、13歳のお誕生日おめでとう!!!

奈良の思い出、せんとくん前史④

想像を遥かに上回る大きさの東大寺大仏殿を仰ぎ見た時の衝撃は、私の奈良に対する印象を決定付けるに十分でした。出発前はほとんど京都ばかりを楽しみにしていて、実際に京都観光でも感動と興奮を味わいましたが、巨大な大仏殿はこの修学旅行で回った寺社の中でも最高の破壊力を持っていました。


小学生の男子とは、単純な刺激に弱いものです。とにかく東大寺が広く、金堂(大仏殿)が大きいというその巨大なスケールに圧倒され、奈良のことが大好きになりました。


大仏殿では大仏様の迫力に感動し、おきまりの柱の穴くぐりをするなどしました。仏教的にはこういう感覚は不敬なのかも知れませんが、大仏様よりも、大仏殿の大きさの方が私にとっては衝撃的でした。


その後、鹿せんべいを買って鹿に追いかけ回されたりお土産屋さんに行ったりして、一行は最後の目的地、法隆寺へと向かいました。


実は、今では東大寺が奈良の神社仏閣で最も好きな場所だという訳ではありません。聖徳太子のファンである私は、法隆寺の方が好きですし、もちろん他にも好きな社寺があります。


ただ、この時は法隆寺で、大仏殿を見た時ほどの特別大きな衝撃を受けることはありませんでした。小学生の私には、その印象を消化するのは少し難易度の高い場所だったのでしょう。


法隆寺では、五重塔の塑像群を拝観したことや、西院伽藍の廻廊の前に座ってガイドさんから説明を受けたこと、その廻廊にあるエンタシスの柱に少し変わった印象を抱いたこと、全体として東大寺周辺とは違う独特の空気を感じたような気がすること(今思えば、一種の異国情緒だったのでしょう)・・・・・・などを、何となく覚えています。


時期的に、恐らく夢殿の御開扉もされていたのではないかと思うのですが・・・残念ながら、ハッキリとした記憶はありません。本当に勿体ないことです。


そうして、京都と奈良の観光を終えた私たちは、愛知への帰路に着きました。


バスが学校に到着した時には既に辺りは暗く、保護者たちが迎えに来ていました。私はこの二日間での感動と興奮の余韻を胸の中で何度も噛みしめながら、母親の車で家に帰りました。


この日以降、私は奈良と京都の大ファンになりました。しかし、確かに最も大きなインパクトがあったのは東大寺なのですが、この時点ではまだどちらかと言えば京都の方が好きでした。日本史好きのガキだった私は、残る資料が少ない時代に都があった奈良よりも、より長く都が置かれ、より多くの歴史的な出来事の舞台となっている京都に惹かれていたのでしょう。つまり、修学旅行での印象以前の問題で、京都への強い憧れがもともとあったのです。


しかし、そんな両者の私の中での立ち位置も、9年後に完全に逆転することになります。それはもちろん・・・あの男の、存在によるものでした。

せんとくん五七五③

平城の


セクシーボーイ


せんとくん


・・・せんとくんの容姿面での最大の特徴は、何と言っても鹿の角ですが、ほぼ半裸であることもなかなかのインパクトだと思います。鹿の角が目立ち過ぎて見過ごされがちかも知れませんが、なかなか大胆な格好です。セクシーボーイです。


せんとくん童子と仏様、鹿の要素が組み合わさっていますが、やはりベースとなるのは童子、つまり人間なので、半裸体には妙な生々しさがあります。


誕生当初、見た目が気持ち悪いと大バッシングを受けましたが、半裸であることもグロテスクさを醸し出している一つの要因ではないでしょうか。もちろんそれは悪い意味ではなく、時の経過と共に人々が慣れてきて人気者となったのですが。


今では衣装にも官服姿など幾つかのバリエーションがありますが、やはり基本は(ほぼ)半裸。今後もそのセクシーな見た目で多くの人を魅了していって欲しいですね。

奈良の思い出、せんとくん前史③

修学旅行2日目、つまり最終日は、早朝に白銀屋さんを出て目の前の若草山に登りました。出発前に、白銀屋にはお土産売り場があったので、友人と一緒になぜか「奈良刀」という男の子が大好きそうなお土産を買いました。


若草山の斜面は滑りやすく、先生から慎重に登り降りするように事前に注意がありました。鹿の糞がそこら中に散らばっていたので、転がってしまったらどんな悲劇が起こるかは容易に想像が出来ました。


私は臆病者なので、気を抜くと滑るだろうなと警戒しながらゆっくりと往復して事なきを得ましたが、降りる際にスピードを出し過ぎて転んで鹿の糞まみれにった同級生もいました。彼を襲ったこの惨劇が後々まで話のネタにされてしまったことは言うまでもありません。


若草山を降りたあと、東大寺の方に降りて行かずに春日大社を参拝しました。春日大社では、朝の木漏れ日や巫女さん、朱塗りの社殿や回廊など、生まれて初めて見る美しい景色と清浄な空気に感動しました。京都では神社には行かなかったので、神社ならではの厳かな雰囲気はとても印象深いものでした。


その後、念仏堂の前あたりを通ったと思いますが、東大寺大仏殿の方に降りて行きました。いよいよ大仏殿(金堂)の拝観です。金堂の廻廊沿いに歩いて中門の方に向かっていたのですが、途中、大仏殿の斜め前付近を歩いていた時に何気なく格子越しに大仏殿を見上げた時、そのあまりの大きさに圧倒されました。


以前の記事で書いたように、少なくともこれ以前に2回、来たことがあったはずなのですが、大仏と鹿を何となく覚えていたくらいで大仏殿の外観の記憶は全く残っておらず、こんなに大きな建物が目の前に現れるとは露ほども思っていませんでした。


こんな大きな寺のお堂がこの世に存在するなんて、信じられませんでした。この時の感動は、31年生きてきた中で最大のものの一つだと思います。何かの建物を見てこれほどまでに大きな衝撃を受けた経験はほかにありません。


思わず息を呑むほど驚き、一呼吸置いて「今からここに入るのか!」と大きな興奮が沸き上がってきました。前日の京都観光ですっかり京都大好き人間になっていましたが、この時の胸の高鳴りは前日巡った京都の3箇所でさえ、味わうことの出来なかったものでした。

せんとくん五七五②

角取れば


つるっぱげだよ


せんとくん



・・・せんとくんのデザインは、童子を基調に少し仏様要素を加えて、さらに頭部に鹿の角を生やしたものです。ですから当然、角を引っこ抜けばつるつる坊主です。


詳細はまた別の記事で書こうと思いますが、せんとくんの誕生からしばらくの間は批判の嵐でした。それに耐え抜いたからこそ超絶人気者になることが出来たのですが、幾つかあった批判の理由の中で最も大きなものの一つは、そのデザインでした。


「可愛くない」だとか「気持ち悪い」だとか、散々な言われようでした。そうした批判を浴びせた人々も、やがてその気持ち悪さの魅力に気が付くことになるのですが、客観的に見て万人受けするデザインではないことはファンである私も認めざるを得ません。ある程度見慣れて自分の中に耐性が出来るまでは素晴らしさが分からない人が多くいたのも必然だったと言えるでしょう。


そして、ビジュアル面で当初は多くの人の拒絶反応を引き起こしてしまった最大の要素は、鹿の角にこそあったのだろうと思います。


坊さんの頭に角が生えているのは明らかに不自然です。しかも、鹿の角は鹿という動物に付いているからこそ可愛く見えますが、人間に組み合わせると不気味でさえあります。


しかも単純に美醜の面で批判されたのみではなく、具合の悪いことに鹿の角を生やしたことで一部の仏教関係者からも非難されることになってしまいました。仏様に鹿の角を生やすとは不敬極まりない、ということです。


結果的に、鹿の角を付け加えたことで多くの批判をその一身に受けることになってしまいました。


実際、角がなくても一定数の人は「可愛い」とみなしてくれたことでしょう。私がクソガキの頃、夏休みの再放送か何かで『一休さん』のアニメがやっていたのですが、このアニメは昔かなりの人気があったそうです。放送終了から10年以上経っても再放送をするくらいですから、それもそうでしょう。


この作品の主人公は一休さんですから、当然スキンヘッドです。でも、今思い出しても、丸坊主特有の可愛らしさや愛嬌がある魅力的なキャラクターでした。


もちろん、両者の違いは角の有無のみではありませんが、せんとくんのあのビジュアルがどれほどの物議を醸したかを顧みると、むしろ角がない方が一般受けする「可愛い」キャラクターでいられたかも知れません。


しかし、私はせんとくんには角が絶対的に必要だと断言します。ここだけは譲れません。角がなければ、せんとくんせんとくんでなくなってしまいます。まず、インパクトが弱すぎます。つるっぱげになってしまったら、平城遷都1300年祭という国家的大イベントを背負って立つキャラクターとしては個性がなさ過ぎる。それによって多少可愛さが増したとしても、印象に残らない当たり障りのない可愛さで、魅力は激減してしまっていたことでしょう。


あくまで一休さんはテレビの中で動いて話しますから、見た目はインパクト勝負ではなく何となく万人受けする感じにすれば良かったのでしょう。そういう意味では、殆どしゃべらず直立不動か踊っているかしかないせんとくんと同じ土俵で語ることは出来ません。

 

せんとくんというキャラクターの最大の魅力は、他ならぬその気持ち悪さ、不気味さ、つるつる頭と角の組み合わせが醸し出す不協和音にこそあります。また、そこに微かに存在する可愛さが良いスパイスとなってただの化け物となってしまうことを絶妙に防いでいる。気持ち悪さ故に当初は大きな批判を浴び、またその気持ち悪さ故に誰もが忘れることのできない人気者となりました。少し前に流行った『きも可愛い』というカテゴリーに入れられることも多いですが、私はその概念にも当てはまらないと思います。せんとくんのキモさには、受け狙いのあざとさのようなものが感じられません。本当に奇跡のようなキャラクターなのです。


そして、せんとくんを他のどんなキャラクターとも一線を画する存在にしている最大の要因は、その角にあると私は思います。


取りとめのない文章になってしまいましたが、せんとくんから角を取ったらつるっぱげになり、つるっぱげの方が当たり障りのないキャラクターとして浴びせられる批判の量も少なかっただろうと思います。


しかし、それでは絶対にいけなかった。そんなせんとくんは、せんとくんではなかった。つるっぱげのなんちゃって一休さんでは、非難は少なくても当たり障りがなさ過ぎてあれほどの爆発的人気を得ることはなく、10年以上経過した今でも奈良県の公式マスコットキャラクターでいるということもなかっただろうと思います。この世から絶滅してしまっていた可能性すらあるでしょう。


「角取れば つるっぱげだよ せんとくん


信仰の面で角を生やしたことを批判する意見に対しては、私は否定も肯定も出来ません。でも、この造形だからこそ、せんとくんは今日に至るまで活躍を続けることが出来ているのだと思います。『角の生えた童子(仏)なんて気持ち悪くて魅力がないから角引っこ抜いてつるっぱげにしろ』という意見に対しては、私は自信を持って断言できます。『坊主頭と鹿の角が醸し出す絶妙なハーモニーこそ、あなたの言う気持ち悪さこそ、せんとくんの無限の魅力の根源なのです』と。


せんとくん五七五①

10年前


みんな大好き


せんとくん



・・・10年前、平城遷都1300年祭の最中と終わってからもしばらくの間は、せんとくんは日本のスーパーヒーローでした。せんとくんを知らない人はおらず、国中の老若男女からモテモテでした。


しかし、この世とは儚いもので、そんな人気も長くは続かず、現在では生息域を大きく減らし、奈良県やその周辺以外で見かける機会はほとんどなくなり、愛知県ではブログ管理人によって絶滅危惧種に指定されるまでに至ってしまいました。


それはもちろん残念なことではありますが、仕方のないことであるのもまた事実です。くまもんもふなっしーも、かつてほどの勢いはありません。栄枯盛衰はこの世の理。誰も逆らうことが出来ません。それは英雄せんとくんであっても例外ではなく、上がるとこまで上がった人気はいつか落ちてしまうものです。


だからこそ、私はせんとくんの人気が絶頂期並みになることを期待している訳ではありません。ただ、当時まだ小さかった人など、せんとくんのことを殆ど知らない人に、せんとくんという奈良が生んだ伝説的なキャラクターが存在することを知ってほしい。10年前はせんとくんに夢中になったけれども、時の経過と共にすっかり忘れてしまったという人に、せんとくんのことを思い出して欲しい。そして、そうした人々の中のほんの一握りでいいから、この強烈なビジュアルのモンスターのことを、大好きになって欲しい。


そのためのささやかな手伝いを、このブログでやっていきたいと思っています。多くの日本国民が、好き嫌いは別としてせんとくんの存在を覚えてくれていて、少数であってもせんとくんの大ファンが存在してくれていれば、せんとくんは地道にその命脈を保っていくことが出来るでしょう。そして、来るべき2110年・・・平城遷都1400年祭で、せんとくんの人気が再び爆発してくれることを願っています。


10年前は、みんなが大好きだったせんとくん。今はそうではなくても、みんながその存在を忘れずにいてくれれば、せんとくんファンとしては本当に有難いです。

奈良の思い出、せんとくん前史②

私の心に奈良県の存在を強く印象付け、後にせんとくんに対して大きな関心を抱かせる伏線となった出来事。それは、小学6年生の時の修学旅行でした。ちょうど、20年前の10月になります。


修学旅行の行き先は、地域や学校によってまちまちですが、全国的に最もポピュラーなのは京都・奈良の2つの古都を巡るコースでしょう。両県まで車で3時間ほどで行ける愛知県の小学校に通っていましたから、そこの修学旅行も当然のようにそのコースでした。


当時の私は歴史の授業が好きだったので、歴史上の多くの出来事の舞台となっている古都に行くのは楽しみでした。でも、その修学旅行自体に、何となくですが京都の方がメインといった感じの雰囲気があり、私自身、奈良よりも京都に行くのを楽しみにしていました。せんとくんの大ファンを自認する今となっては忸怩たる思いですが・・・正直に申し上げて、当時の私は京都により強い関心を持っていたのです。


実際に、修学旅行に行く数週間前から、毎日の「帰りの会」の時に1・2人ずつ抱負を発表させられていたのですが、クソガキだった私は「金閣寺を見て美しさに感動し、銀閣寺を見て銀色じゃないことにガッカリする波乱万丈の時間を過ごしたい」(そもそも慈照寺はコースに入っていないのに)というバカなことを言ってしまい、奈良のことには全く触れませんでした。


そうして迎えた1泊2日の修学旅行では、初日に清水寺鹿苑寺金閣、さらに平等院を巡りました(平等院は道が混んでたら時間なくて行けないと言われていたのでラッキーだった)。京都大好き小学生の未来のせんとくんファンは、千年の都の美しさに狂喜乱舞し、完全に奈良のことなど頭の中から吹っ飛んでしまっていました。京都最高!京都最高!!私の中はそれだけでした。実際に、この時の感動をきっかけに、中学校の途中くらいまではその難易度も知らずに京都大学に入りたいとさえ願うようになります。


そんな奈良を裏切ったクソガキを乗せた一行は、その日は夕方に奈良県入りし、どこにも寄らずに真っ直ぐ宿泊所に向かいました。初日の日中に京都を巡った後、奈良に泊まって翌朝から奈良県を観光する日程でした。


宿泊施設は、若草山の目の前にある「白銀屋(しろがねや)」という旅館でした。到着して荷物を部屋に置いた後、食堂で奈良の鹿のお話を旅館の方から聴いて郷土料理をご馳走になり、なんとその後東大寺の二月堂に向かいました。もちろんとっくに夜となっていましたし、お堂の中に入ることは出来ませんでしたが、高台から観る奈良の街の夜景に心癒されました。


堂内ではお坊さんが宿泊しているから絶対に大声を出さないようにと事前に先生から強く釘を刺されていましたが、私のようなイタズラ小僧でさえ友達とはしゃぐのは無粋だと思えるほど、そこは美しい静寂に包まれていました。


・・・この記事で修学旅行について書き終えるつもりが、もう一つ記事を費やすことになりそうです。そもそもこのカテゴリーの記事ではせんとくんにまつわる個人的な思い出を記していくはずなのですが・・・せんとくん生誕以前のことで3つも記事を書くとは、一体何のブログなのか訳が分かりませんね。


でも、この修学旅行が私に奈良県に対する生涯消え去ることのないであろう憧れを植え付け、その憧れがせんとくんへの愛情を強める大きな要因となったことは事実です。この翌日、自宅に帰って来る頃には、私はすっかり京都のみでなく奈良県の大ファンにもなっていました。